トラボルタには一生会えない

駆け出し映画監督の日記です。せきららラララ

くそったれ善

引っ越しをした。いよいよ新しい人生。東京都民だ。

約一ヵ月経ったけど、まだふわふわしている。前の川崎市には近くに仲間がいてとにかく「孤独」な時間が少なかった。本当に恵まれた環境で暮らすことができていたんだなと離れてみて心底痛感する。いろいろ端折るけど、一人暮らしは3回目の経験で、1回目も2回目も、寂しすぎて調子が悪くなって、半年くらいしか持たなかった。シェアハウスしてくれる友達、居候させてくれる家族。なんだか本当にいい人に恵まれた(2回目)。たくさん助けられ、それに甘えたりもしたけど、おかげで生きている気がする。27にして、ちゃんと一人立ちの意を持って旅立てた気がするのである。大人になるって難しい。でも一年ひたすらに働いて、目標金額まで貯めることができたのは素直に褒めたい。自分えらい。

 

いろいろ落ち着いて、人生をざらっと振り返ってみた。もう四半世紀も生きたんだな。よく生き抜いたな。えらいな自分と無理やり肯定しつつ、今現状、これから立派に生き抜いていくためのスキルも知識も何一つない自分に結構落ち込んでいる。こういうことはずっと考え込むと負のループが発生いてしまうので、前者のほうをよく言い聞かせながら、これからも生きていこうと毎日思っている。

 

ちょっとここから本題。この前友達に「自分が100パーセント納得しているけど売れない映画」と「納得はしてないけど世間から評価される映画」どっち撮りたいですかという質問をされた。「その時は極論すぎますよー笑」なんて言いながらお喋りしてたんだけど、あとあと一人でその回答を探していたら、やっぱり2つのどれにも当てはまらなくて、あー、僕はきっと「自分に納得するための映画」を撮りたいんだろうなと落ち着いた。

少し前までは、誰かの居場所になれるような映画、心が少し軽くなる映画なんてアバウトに思っていたけど(もちろん最終目標はそこだけど)、そんなの二の次なのかもしれない。どこかしら押しつけがましい優しさに説得力なんて生まれないから、僕はここに居場所を見つけたんだ、これで優しくなれたんだって提示していく力が僕には必要だ

 

映画館で働いていると、なんでこんな奴が映画見てんだよって思うこといっぱいある。本当に嫌なおじさんいっぱい来る。数日前のアジアン映画祭の事件もそうだけど、評論家ぶって達観してる映画好きがたくさん映画館にくる中、圧倒的優しさでその人たちを魅了したい。

僕が僕自身にOKサインを出せること、これは私生活でも人間関係でももちろんそうなのだけれど、もう一つ、これから映画を撮りたいと掲げるには、そこにもテーマとして追加しとこうと思う。

 

どれだけ映像になかに「自分」が居るか、そこに僕が居て、観てる人がいて、共感が生れればそれでいい。僕の為に撮った映画が、あなたの為になるように、決して押しつけがましくない、気づけば優しさが振りまけてるような、自分勝手な人でありたい。

 

不安すぎるけど、これからに期待を込めて。がんばれ自分。